転居先の近くに新しいコーヒーチェーンが出来た。
港屋珈琲という、三重県を中心に3県に渡って展開している店だった。
転居先の近くには夜に営業している喫茶店がコメダ珈琲しかなく、コメダの不味い珈琲には金を払う気がしないので、とても有り難かった。
また、港屋珈琲には壁に向かって作られたカウンター席のような席があった。
これも入りやすくて有り難かった。
港屋珈琲には、品の良さそうでいけ好かない細身の男と、とびきり美人とまでは言えないが、上品で愛想の良い女の店員がいた。
席に座ると、「本日は御来店ありがとう御座います。」と言って僕に一礼した。
店を出る時は、金を払ったあとにドアを開け、「お気をつけてお帰りくださいませ。」と言って、また一礼した。
別に過剰なサービスは求めていないが、店員の振る舞いがとても自然で、悪い気はしなかった。
港屋珈琲では、ホットコーヒーをオーダーして、1時間程度本を読んだ。
喫茶店では本を読むのが良い。
家で読むよりも、喫茶店で読むのがいい。
理由は、いくらかある。
まず一つに、金を払うということ。
420円はコーヒー一杯の為に払っているのではない。
空間と時間に金を払っている。
420円で手に入れた時間だからこそ、価値がある。
二つ目に、不要なものがないこと。
机とコーヒーしかないのだから、相手がいなければ携帯をいじるか本を読むくらいしかない。
携帯をいじるのなら別に家でも良いので、わざわざ喫茶店ではしない。
本も同じだろうと思うかもしれないが、本は違う。
読書をするのにないものが店にはあり、家にはない。
それが三つ目。
音楽と声。
大体の喫茶店にはジャズっぽい音楽が流れている。
これが良い。
流行りのJ-POPなんて必要ない。
イヤホンからでなく、店内に流れているのがいい。
ジャズは流れている場所の空気を作る。
それから声。
これはやかましい客の声ではない。
時々、居酒屋と勘違いした中年よりやや年配の男性グループがつまらない話をデカい声でしているが、これは読書には相応しくない。
僕が言っているのは店員の声である。
出来ればこなれた女性店員の声が良い。
別の客のオーダーをとる少し高い声が、店内に流れるジャズと共に喫茶店の空気を作る。
こうした理由から、僕は喫茶店で本を読むのが好きだった。
個人経営のお洒落なカフェは夕方に閉店してしまうことが多く、また、一人で長居するには狭い。
だから読書には少し広めのチェーン店が良い。
勿論コメダ珈琲以外の。
だから僕は港屋珈琲で本を読んだ。
中村文則の『銃』を途中まで読んだ。
何故この本を僕はこれまで読んでこなかったのだろうと思った。
傑作だった。
テントを買ったらキャンプをしたくなるのは何故だ。
乳化性クリームを新調したら靴を磨きたくなるのは何故だ。
筆記具を買ったら何か書きたくなるのは何故だ。
鍋を買ったら料理したくなるのは何故だ。
銃を拾ったら撃ちたくなるのは何故だ。
西川という人間を通して、なんて生半可なものじゃない。
感情移入とか、共感とか、そんなもんじゃない。
その日、銃を拾ったのは僕だった。
僕の鞄の中にはキュプラの黒いハンカチで磨かれた銃が入っていた。
ジャケットの内ポケットには確かな重みがあった。
誰かに見つかるのではないかという不安と不思議な高揚感が左胸で脈打った。
銃を持つ。
それだけで満足だった。
そのはずが、いつしか持ち出さずにはいられなくなった。
見つからないように慎重に持ち出した。
鞄からは決して出さなかった。
なのに気がつけば銃を入れた革の袋に触っていた。
袋はいつの間にか机の上に置かれていた。
ジャケットの内側に入れられていた。
中に入っていたはずの銃は取り出され、僕の右手に握られていた。
決して引くまいと思っていたはずの引き金は、いとも簡単に引かれてしまった。
たった1時間。
この本を読む間のたった1時間。
1日の中の1/24の時間で、僕は銃を手にしていた。
これまで読んだ本とは圧倒的に違うリアリティ。
文庫本という形を通して自分の手に伝わる金属の重み。
人を殺める為だけに作られた美しい形。
その日、銃を拾ったのは僕だった。
何を言ってるのか意味が分からないと思う。
この本を読むと少し分かる。
その気になったのなら、文庫本を買って港屋珈琲に行くと良い。
僕の鞄の中にはまだ『銃』が入っている。